アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所見学。負の歴史遺産に思いを巡らす

今回のブログはいつものユルい旅ブログと違って、ちょっとまじめに書きたいと思います。

5月下旬。今回のヨーロッパの旅で一つの目的としていた「アウシュビッツ・ビルケナウ収容所」を訪れる日。
実はクラクフには1泊だけして次の日にアウシュビッツ、そのまま夜行でプラハ行き、という足早プランを最初考えていました。

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アウシュビッツ博物館公認の日本人ガイド

しかしアウシュビッツでただ一人の公認日本人ガイドである中谷さんにメールを送ったところ、その日はスケジュールが合わないのでガイド出来ませんとの返事。
仕方ないから英語のガイドを頼むか、単独で入れる時間に行くか、どっちかにしようと思ってました。
(現在アウシュビッツを訪れる人があまりに多いため、午後3時まではガイド付きじゃないと中に入れないという決まりがあるのです。)

しかしいろいろネットで検索するうちに、アウシュビッツには日本人のガイドが絶対おすすめとの情報を多数発見。
それならば多少プランを変更してでもガイドをお願いしようと、予定を変更。
結局、中谷さんのスケジュールに合わせ、クラクフには2泊多めに滞在することなりました。

・・・結果的に、日本語ガイドをお願いして本当に良かったと思います。

旅立つ前にアウシュビッツやナチスドイツに関するいろいろな映画やドキュメンタリーを見て予備知識をつけて来たつもりですが、実際この場所へ来て見て、仮にガイドによる説明がなかったとしたら、「こわいところだ」「悲惨な場所だ」などありきたりで表面的な感想しか持てなかったかもしれない。

せっかく訪れるからにはちゃんと日本語の公認ガイドをつけて、この場所で起こった出来事を学び、理解し、しっかりと自分の記憶にとどめておきたいと思いました。

クラクフ市内からアウシュビッツへ

さてさて、前置きが長くなっちゃいましたが、まずはアウシュビッツへの行き方。

クラクフ本駅の裏側にあるバスターミナルからアウシュビッツのある「オシフィエンチム」までバスが出ているので、窓口で往復のチケットを購入。往復1人28ズォティ。840円ほど。
実は往復チケットを買ったのに帰る時のバスの乗り場が分からず、別のバス会社のマイクロバスに泣く泣く乗ってしまいました。その料金は片道1人12ズォティ。(いや、ほんとアウシュビッツからの帰りのバス乗り場が良く分からないことになっててまいった。)

アウシュビッツへ入場

話を戻します。
クラクフからバスで2時間ほど。アウシュビッツ収容所のあるオシフィエンチムへ到着すると、入口の建物の前は来訪者でごった返していました。
10時半に中谷さんと待ち合わせしていましたが、他にも日本人がいて会話をしてらしたのですぐに分かりました。

アウシュビッツ

ガイドを依頼していた日本人は合計8人で、指定のガイド料を8人で割ってその場で支払いました。

収容所内には基本的に無料で入れるのですが、前述の通り、指定時間内はガイド同伴でなければ入れないようになっています。

アウシュビッツ

トイレを済ませてからいよいよ入場。

アウシュビッツ

▲このような無線機を渡されてヘッドフォンを耳にセットします。離れた場所でもガイドさんの声を聴くことができる仕組みです。混雑している際は複数のガイドが同時にしゃべるため、自分のガイドさんの声を聴き分けるために役に立つアイテムとなります。

アウシュビッツ

▲アウシュビッツ収容所内の説明を受ける。

アウシュビッツ

▲敷地の周りには有刺鉄線が張り巡らされていました。当時は高圧電流が流れる「死の境界線」でもありました。

アウシュビッツ

▲収容所施設の入り口。「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」。何も知らされずにこの場所へ連れて来られた人々はこの文字を見て、「自由」へ向けてほのかな希望を抱いたかもしれない。この先にあるものが「自由」などではなく「死」だと知らされないまま・・・。

博物館となっているアウシュビッツの収容棟へ

アウシュビッツ

収容施設の建物は、意外としっかりしていて周りには木が植えられ道も整備されていました。
これは対外的に一般的な刑務所として見せかけ、大量虐殺が行われている強制収容所だと分からないようにカモフラージュするためだと言われています。

アウシュビッツ

▲強制労働を強いられていた囚人たちの様子。

収容所内では囚人の行動を監視する役割を囚人自ら行わせていたと言います。
つまり、囚人の中から選ばれた人たちに生き延びる権利を与え、他の囚人たちを監視させる。
そうすることで囚人の中に上下関係を作り階級社会を形成していたわけです。
ドイツ兵はつらい仕事は全てそういった囚人にまかせ、収容所内をうまくまとめていたということです。
さらにはドイツ兵の精神的なダメージを避けるため、囚人をガス室に送ったり、遺体の処理などもすべて「特権」を与えられた囚人にまかせていたというからひどい話です。

灰の記憶という映画でその様子が良く分かります。英語なのがちょっと違和感あるけど。

アウシュビッツ

建物の一つに入ってみます。
時期にもよるけど中は人でごった返しており、ゆっくりと見ることができなかった。
しかしポイントごとにガイドさんの適切な説明があり、無駄なくスムーズに見学することができたと思います。

アウシュビッツ

▲遠目でちょっと見にくいけど、アウシュビッツを中心にした地図。ヨーロッパ中のあちこちからこの収容所に人々が送られてきました。

アウシュビッツ

▲収容された人たちの内訳。

ユダヤ人:1,100,000人
ポーランド人:140,000~150,000人
ロマ(ジプシー):23,000人
ソ連軍の捕虜:15,000人
周辺諸国からの捕虜:25,000人
そのほか同性愛者や精神・身体障害者、ドイツ国内の反社会的分子、政治犯など。

アウシュビッツ

連行されたユダヤ人はハンガリーが43万人と一番多く、ついでポーランドが30万人、その他フランス、オランダ、ギリシャ、チェコと続く。
ちなみに「アンネの日記」のアンネフランク一家もオランダのアムステルダムからビルケナウ収容所に移送され、その後アンネはベルゲン・ベルゼン強制収容所という場所で命を落としています。
映画「アンネの日記」では隠れ家が見つかり逮捕される時までが描かれていますが、テレビドラマとして制作された別の映画「アンネ・フランク」では、収容所に連れて行かれた後のアンネたちの様子が克明に描かれています。

Anne Frank: The Whole Story Part 15

ほとんどが正当な理由なきまま、ナチスにとって都合が悪いという理由だけで収容所送りとなり、これら130万人ほどの収容者のうち、110万人ほどが殺害されたといいます。
※この人数については諸説があるようです。

アウシュビッツ

アウシュビッツ

▲連行されてくる人たちの様子。

アウシュビッツ

▲こんなに小さな子供の姿も。子供たちの多くは連れてこられるなりすぐにガス室へと送られ殺されていったと言います。

アウシュビッツ

▲列車でビルケナウ収容所に到着した人々。

収容所に到着すると、まるでゴミの分別をするがごとく人々の「選別」が行われ、健康でまだ働けそうな男女以外の労力になりそうもない老人、病人、妊婦や子供などはそのまま死のガス室送りとなってしまう。

収容所の許容範囲が超え、これ以上収容できない状態になった時期には、もはや選別すら行われず到着した人たち全てをそのままガス室に送りこんだということです。もはや人間とみなしていない状況です。

アウシュビッツ

▲アウシュビッツ周辺の地図。当初はアウシュビッツ1号収容所のみだったのを、1941年秋ごろに収容者の増加にともないあらた新たに広大な広さを持つビルケナウ収容所(アウシュビッツ2号収容所)が建設されました(後述)。もともとその場所に住んでいたポーランド人は強制退去させられたという。どんだけ横暴なんだ・・・。

アウシュビッツ

▲ビルケナウ収容所にあるガス室で実際に使用された毒ガス(チクロンBという粒状の殺虫剤)の空缶。

アウシュビッツ

▲押収されたメガネ。

アウシュビッツ

▲義手や義足など。

アウシュビッツ

▲パニックを起こさせず安心させるため、あとで返却するからとカバンに氏名や住所などを書かせて・・・。

アウシュビッツ

▲持ち主亡き後の靴。

アウシュビッツ

▲見学するイスラエルの兵士たち。

自分らも含めて外国人にしてみればこのアウシュビッツ訪問は、言ってみれば観光の延長くらいの気持ちで訪れるのかもしれません。
しかし身内がこの地で亡くなった遺族の方々、ユダヤ人の子孫、イスラエルの人々などは全く違った意味でここにやってきます。
その心情はとても想像できるものではありません。
見学の最中も多くのイスラエル人たちを目にしましたが、「彼らを優先的に見せてあげてください」とガイドさんがおっしゃっていました。
また、施設内では心が締め付けられるようなポイントが幾つかあり、そこは撮影禁止ゾーンとなっていましたが、イスラエルの方々はじっくりとその場所にたたずみ、撮影する人や声を上げて泣き叫ぶ人もたまにおられるようです。とてもいたたまれない気持ちになります。

拷問や処刑が行われていた11号棟へ

アウシュビッツ

▲監視側にまわった囚人たちの部屋。少しいい暮らしをしていたようです。「ヒトラーの贋札」という映画でも特別に優遇された囚人たちが環境の良い部屋に移されて暮らす様子を見ることができます。

アウシュビッツ

▲拷問や処刑などを行う部屋などが続きます。

見せしめのため数々の懲罰や拷問なども頻繁に行われており、それらが行われていたポイントもあったが撮影禁止となっています。
90cm四方のせまいスペースに4人を立たせる「立ち牢」や、一切の食事や水を与えない餓死刑を行った部屋など、目をそむけたくなるようなエリアでした。
身代わりとなって自ら死を選んだポーランド人のコルベ神父などは餓死刑を受け、最後は注射を打たれて亡くなりました。後に「アウシュビッツの聖者」とも称えられた彼の行動は多くの人に感動を与えています。
遠藤周作著「女の一生(第二部)」ではコルベ神父がアウシュビッツに送られて身代わりとなって亡くなるまでの様子が小説として描かれています。「愛の無い場所なら、愛を生み出せばいい」という言葉が印象的です。

アウシュビッツ

▲銃殺が行われた「死の壁」。

ガス室・焼却炉へ

アウシュビッツ

▲アウシュビッツ収容所の所長だったルドルフ・ヘスが戦争終結後に捕えられてこの場所で絞首刑に処せられました。まじめで教養のある人物だったのに、国のために尽くし、命令通りに従ってきたがためにこのような最期を遂げることに。

アウシュビッツ

▲大量虐殺の現場。ガス室、焼却炉の煙突。

アウシュビッツ

▲ガス室の内部。シャワー室として安心させるためにダミーのシャワーも取り付けられていたとか。

アウシュビッツ

▲ガス室で殺害された人々を運び出し、その後、この焼却炉へ・・・。恐るべき死の工場と化していました。

想像を巡らしてみる

ガイドの中谷さんはよく「想像してみて下さい。」と、見学している僕らにも問いかけていました。
産業的にも文化的にも成熟し、元来民主的な政治も行われていたドイツという国で、なぜこのような虐殺が行われる結果となったか。
何が人々をこのような凄惨な行動に仕向けたのか。

「自分たちの豊かな生活を取り戻すため仕方ない。」
「声を上げたら自分たちもやられるかもしれない。」
「自分たちには直接関係ないから関わりたくない。」

言ってみればこれは優位にある人たちの「エゴ」でもあり「事無かれ主義」が原因かもしれない。
そして無関係の人たちの「無関心」「傍観者的な思考」にも原因があるかもしれない。

ここで起きたことの悲劇は、今の時代に生きる僕らには責任がない。
だけど、この悲劇を再び起こさせないという責任はあります、と中谷さんはおっしゃっています。

例えば日本国内に目を向けても、特定の国の人たちに憎悪を向ける「ヘイトスピーチ」という運動が小規模ですが行われてたりします。
今はまだ小さな活動かもしれないけど、経済が低迷したりして人々の心が一定の方向に向き出し、何かちょっとしたきっかけで爆発するかもしれない。
何が悲劇を起こさせる原因なのかは今は分からない。
だけど歴史を学んで二度と同じ過ちを繰り返さないようにしなければならない
その「超えてはならない線」の一つとしてアウシュビッツを見て、自分たちの心に留めておくのは、ある意味一つの対策だし教訓にもなり得ます。

ビルケナウ収容所へ

続いて、アウシュビッツから3kmほど離れたビルケナウ収容所へ無料のシャトルバスを利用して向かいました。

絶滅収容所」として実際に絶滅計画が進められ、想像を絶するホロコーストが行われたビルケナウ収容所。
1号収容所より数倍広い敷地は、同じように電流が流れるフェンスで仕切られ、強力な監視体制が敷かれていました。
囚人が寝起きする宿舎は作りも粗雑でネズミやシラミが常に発生するような劣悪な環境だったと言います。

アウシュビッツ

アウシュビッツ

▲線路が直接敷地内に引き込まれ、数多くの人々が貨車に乗せられてこの場所へ連れてこられました。

アウシュビッツ

▲家畜運搬用の貨車に人々が立ったままギュウギュウ詰めにされて運ばれてきました。

アウシュビッツ

▲線路の両脇に下されて「選別」が行われ、幼い子供や老人などはすぐにガス室へと連れて行かれました。

アウシュビッツ

▲ガス室へと連れて行かれた人々と同じ方向に進んで行きます。

アウシュビッツ

▲敗色が濃くなった頃、ドイツ軍が証拠隠滅のために爆破したガス室の痕跡。アウシュビッツで見たガス室より規模が大きい。

アウシュビッツ

▲奥に見えるのは1960年代に犠牲者追悼のために作られた国際受難記念碑。

ビルケナウの収容棟内部へ

アウシュビッツ

▲ビルケナウの収容棟の中へ入ります。

アウシュビッツ

アウシュビッツ

▲まるで家畜小屋のような粗末な作り。冬はマイナス30度ほどにもなる極寒の場所。とても人間の住む環境じゃない。

アウシュビッツ

▲囚人の寝床。まるで物置の棚・・・。一つの寝床に7人~9人ほどが詰め込まれて寝起きしていたそうです。

アウシュビッツ

▲囚人用のトイレ。毎日決まった時間に集団で連れて行かれ、決められた時間内に用を足さないといけなかったという。仕切りも何もなく、散乱する汚物を気にする余裕もなく・・・。人権もへったくれもない。

世界各地からの来訪者数・・・日本は?

ガイドの中谷さんは、午後の部もあるからと先に帰られました。
非常に丁寧で的確なガイドをして頂き、英語が不得意な日本人にとっては極めて貴重な人物です。

アウシュビッツ=ビルケナウ博物館の統計によると2011年の日本人の来訪者は年間で約1万人とのことで、年々その数は増えていますが、他の先進国に比べるとまだまだ少ないようです。
例えば韓国から約43,000人ほどが訪れており、アジア1位の来場者数です。人口の比率で見たら日本の約10倍ほど。
この違いは何なんだろう?

ちなみに世界1位は当然のことながらポーランドで60万人。2位は意外にもイギリスで8万2千人。次いでイタリア、イスラエル、ドイツ、フランス、アメリカと続きます。
見学の途中でイスラエル人たちの後ろをドイツ人の団体が通り過ぎるのを見たりして、時代は変わったんだと思うと同時に、過去をしっかりと見つめて将来に生かそうとする姿は、今後の人類にとっても必要な姿勢かと思えてなりません。

アウシュビッツを見学して思ったこと

ビルケナウを後にする時、イスラエルの兵士たちによる追悼式典みたいのが行われており、国旗を持ちながらゆっくりガス室のあった方向へ進む団体の様子を見ました。
そんなイスラエルも今は自国領土のため周辺の国と戦闘を繰り広げていたりします。
国家レベルで見たら人類の歴史はエゴの塊で、それは今後も続いていくと思います。残念ながら。

だけど、前述したコルベ神父や、オスカー・シンドラー氏、6,000人ものユダヤ人を救った日本人大使の杉原千畝さん、ハンガリーで10万人ものユダヤ人救出に尽力したスウェーデン外交官のラウル・ワレンバーグ氏など、大変な時代にも良心を貫き通し、正義に生きた人物が存在したことも確か。
いつの時代にも暴走を始める国家がある。しかしそれを食い止めるのが「良心」を持った人間自身なのも確か。

アウシュビッツを訪れて思ったこと。

過去をしっかりと見直し、いかに良心に沿って生きるか。
それが今後の人類の課題でもあり、永遠のテーマ
なのではと思ったりしました。

アウシュビッツ