カジミェシュ地区とシンドラーの工場見学。ナチス支配下のポーランドを体験できる場所
今回の旅で一つの目的としていたこと。
第二次世界大戦中にナチス・ドイツが残した負の遺産を自分の目で見てみたいと思っていました。
一番の目的はアウシュビッツを訪ねることですが、その前の予備知識として、第二次世界大戦中のクラクフがどのような状況だったか、ナチスによりユダヤ人たちがどのような扱いを受けて来たか、それらの見聞を広め、体験できる場所がクラクフ市内には幾つかあります。
旧市街の観光と並行してそれらの場所も訪ね歩いてみました。
クラクフ・ゲットー
クラクフはアウシュビッツへの中継地としても有名ですが、ユダヤ人迫害に関する様々な史跡が存在します。
クラクフ市街地の南部にあるカジミェシュ地区は元々伝統的なユダヤ人居住区でしたが、ナチスドイツにより外部と遮断する壁が作られ、ユダヤ人だけを隔離する場所「クラクフ・ゲットー」として存在していました。
旧市街から南へ歩いて割とすぐの場所に当時クラクフ・ゲットーと呼ばれていたカジミェシュ地区に入ります。
ここで隔離されて暮らしていたユダヤ人たちは、結局次々と強制収容所に移送され、生き延びたのはほんのわずかな人たちだったそうです。
移送の際に逃げ惑うユダヤ人を強制的に連れ出し、ドイツ兵により荷物が強奪され、逆らう者はことごとく殺害された悲劇の場所。
それら当時の様子をスピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」で垣間見ることができます。
シンドラーの工場
映画をご覧になった方は内容をご存じだと思いますが、ざっとおさらい↓
1939年9月、クラクフはドイツ軍の占領下に置かれ、ユダヤ人をゲットーの中へ追放していた。そんな中、ナチス党員でドイツ人実業家オスカー・シンドラーが、クラクフの町で琺瑯(ほうろう)容器工場の経営を始めた。当初は安価な労働力としてゲットーのユダヤ人を雇い入れ戦時中にひと儲けすることを目論んでいたシンドラー。しかし、クラクフ近郊にある収容所(プワショフ)でユダヤ人が次々と殺戮されていくのを知り、心境に変化が。
1944年に入ってソ連軍の反撃が始まり、ドイツは証拠隠滅のためシンドラーの工場の閉鎖を決定。
そこで働いていたユダヤ人がアウシュビッツに送られ殺害されることを察したシンドラーは、自身の生まれ故郷であるチェコのブリンリッツへユダヤ人を連れていくことを決心。所持していた多額の財産を利用して一人でも多く救い出そうと、連れていくユダヤ人たちの名前を記載したリストを作成。その人数は1200名近くにも上った。
シンドラーがクラクフで経営していたホウロウ容器工場は閉鎖され、戦後は別の企業が入る等して利用されていました。
その後、映画が公開されると「シンドラーの工場」という名称に戻され、2010年には建物や館内の修復が行われ、最近になって博物館としてオープンするに至った次第です。
旧市街から博物館へ
旧市街からはトラムを乗り継いで来られるみたいですが、それほど距離があるわけではないので歩いても行けます。
iPhoneがあればWIFIのあるところでGoogle Mapを開いて周辺の地図をダウンロードしておき、GPSで居場所を確認しながら目的地を探しました。(今回の旅ではこの方法でいろいろ便利に移動できました。)
ゲットーがあったカジミエーシュ地区からビスワ川の橋を渡り、細い小道を抜けると観光バスなどがたくさん泊っている建物が見えました。そこが博物館です。道すがら案内表示があるわけではないので、歩いていく場合は事前に詳細な場所を調べて行くことをお勧めします。
▲博物館の近くにはこんなカラフルな建物が。目印になるかも。
▲博物館の入り口。
▲表に掲げてある印象的な歯車の看板。
博物館へ入場
この博物館、 1939年~1945年のナチス占領下のクラクフがどのような状況だったかを知ることがテーマとなっており、シンドラー氏の人物像や当時の工場の様子がメインで展示されているわけではありません。(もちろん一部それに関する展示はあります。)
実際自分らも博物館の内部に入るまでこういうテーマを扱う博物館だとは知らなかった。あくまで中立的、客観的な見方で当時のクラクフの様子を紹介している場所なんです。
入り口を進むとすぐに受付があり、そこで入場料を支払いチケットを購入します。1人19ズォティ。約570円。
この博物館は非常によくできていて、部屋を進むごとに工夫を凝らした見せ方、展示の仕方をしており、全体がテーマパークのアトラクションみたいです。ゆっくり見て回ると2時間はかかるのですが、飽きさせない。
占領される前とされた後のクラクフ
入場するとまず1939年のクラクフの様子を紹介する部屋が。
ナチスに占領される前のクラクフの町並みや当時の人々の生活の様子などを写真で見ることができます。
▲双眼鏡に目を当てると古ぼけた写真スライドが見えます。レトロ感満載だ。
▲当時、街角に貼られていたポスター
次の部屋へ進んで行くと、1939年9月にナチスがクラクフの町を占領した時の様子を知ることができます。
▲当時のポーランド軍の戦車。とてもドイツ軍の屈強な戦車にはかなわない。ほとんど抵抗もできないままあっという間に占領されてしまった。
▲ドイツ兵のヘルメット。
▲街は一気にナチスの象徴であるハーケンクロイツの旗一色に染められていく。
ドイツ国内ではナチス時代の記憶を消し去りたいくらいタブー視されているので、当時を彷彿とさせる展示物はどのような博物館でもあまり見ることが出来ないらしい。
それが被害国でもあるポーランドで、あくまで客観的立場で公開されていることは、とても頭の下がる思いです。
▲クラクフに住んでいたユダヤ人たちに出された差別的な「通達文」の数々。ユダヤ人は○○してはならない・・・、ユダヤ人はゲットーに移住すること・・・など。
▲ふと足元を見れば鉤十字のマークがギッシリ。街全体がナチスに支配されたことを物語っており、ギョッとしました。
▲街中を行進する等身大のドイツ兵の写真など。占領下のクラクフの雰囲気を体感できます。
ナチス支配下のクラクフ
街は完全にナチスの支配下に陥り、ナチスやヒトラーを称賛する張り紙や書物があちこちに出回り、広場や駅の名前、通りの名前などもドイツ語に改められました。
同時にユダヤ人に対しての厳しい差別と迫害が行われました。
当時街中を走っていた路面列車が原寸大で再現されていたり、街中でユダヤ人たちがドイツ兵に捕えられている写真があったり、クラクフの知識層を廃絶するため講義中の大学構内に突然ドイツ兵が押し入る瞬間を再現した部屋があったり・・・
見せ方、体感させ方がとても考えられた作りになっていて、なおかつ写真や映像、展示物にはそれぞれ細かい説明(英語とポーランド語)が施されていて、じっくり見ると相当の時間がかかります。
それらの展示物を見るのに夢中になり、うっかり写真を撮り忘れたところ多数・・・。
歩を進めていくと、ユダヤ人たちが捕えられて拷問や処刑された悲劇を伝える通路へ。
▲処刑後の写真など、残酷だけど「事実」だったことを隠さず展示しています。
▲拷問が行われた部屋を再現。階段を下りて薄暗くて狭い通路の先にあえて作られていました。扉の中から人のうめき声が聞こえてくるのまで再現されています。
▲迫害から身を守るため、できるだけ息をひそめて隠れるように暮らすユダヤ人家族の様子を再現。映画「アンネの日記」を思い出させます。
シンドラーの工場、事務室を再現
さらに進んで行くと、シンドラーの工場の事務室を再現した部屋へ。
▲シンドラーの使っていた机や書類など。
映画でも描かれていましたが、当時ユダヤ人たちの間で「あそこに行けば助かるぞ」といううわさが広まり、多くのユダヤ人たちが雇い入れてもらうためにこの場所を訪れたとのこと。
▲工場で作られていた容器類。
▲床の板張りは当時のままなのか、人が歩くとギシギシとすごい音があちこちでしていました。
▲たくさんの文字が書かれた円柱のオブジェが。
▲リストに載せられ、救われた1200名ものユダヤ人の名前。
他にも収容所の様子を再現した部屋があったり、あの「カティンの森事件」に触れた写真展示があったり・・・。
写真を撮り忘れたというのもあるけど、とてもブログでは紹介しきれないほどの膨大な情報量で、圧倒されます。
解放後のポーランドとその後の時代の象徴
博物館の最後の方は、ようやくナチスから解放された1945年当時の状況もしっかり分かるようになっていました。
この人物の肖像画がその後のポーランドの暗く重苦しい時代を象徴するものとなります。
ナチスから解放したスターリン率いるソ連の支配下に置かれたポーランド。
その後1989年の冷戦終結まで共産主義国家としての時代が続いていく。
今はこうして誰でも自由に旅行ができるような平和な時代、民主的な国家になりましたが、第二次世界大戦中のクラクフ、ポーランドがいかに翻弄され、被害を受けてきたか、いかに加害国となるドイツが支配してきたか。
とても冷静な目で、細かい部分まであますことなく体験できる貴重な博物館だと思いました。
こうして思い出しながらブログに書いていますが、もうちょっと時間をかけてじっくり見ておくべきだったなと反省することもあります。
またいつか機会があれば再訪したい場所の一つです。
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