今の日本に漂う謎の閉塞感の原因とその解決策になりそうなこと
ある二冊の本読みまして、たまには読書感想文など書こうかと思いました。
その前に、大磯でこの前こんな事件が起きてマジかいな、と思いました。
事件現場はよく散歩しに行く公園のトイレ。あの場所でまさか・・・と身震いしました。
被害に遭われた男性の無念を思うと本当に涙が出る思いです。
普通に生活していた人がある日突然変貌し狂気に走る。「誰でもよかった」「むしゃくしゃしてた」とか、まったく身勝手な理由で見ず知らずの人を殺めてしまう。・・・こんな怖いことはない。
一方で、いじめや過労の果てに自ら命を絶ってしまうようなことも頻繁に起こる、自殺大国でもある日本。
何か言いようのない閉塞感、押しつぶされそうな空気感が今の日本という国に充満しているのでは?
この言いようのない閉塞感の原因っていったいなんなんでしょ?
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柄にもなくこんな本を読んでみました。
大饗広之 勁草書房 2013-05-01
臨床心理学や精神病理学という観点で書かれた、専門性の高い内容でしたがなかなか興味深く読ませてもらいました。
まず、戦後から現代に至るまで、人が抱いていた攻撃エネルギーがどこに向いてきたのかというテーマに関して。
戦時中は一億火の玉だったけど、戦後は人々が向けるエネルギーの「中心」が緩み、攻撃の矛先が徐々に多様化していきます。政治への不満、学生運動、社会への反抗、家庭内暴力などなど・・・。
現代を見るといじめや虐待、パワハラ、過労死などのキーワードがはびこるようになり、普通に生活したり仕事したりする上でより身近な、より狭い世界で、より内向的に攻撃性が高まってきているようです。
そんな状況がいつしか当たり前になって、気づけば自殺率が世界でもトップクラスになり、冒頭で書いたような意味不明な殺人事件が起きたりする。
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いじめ防止、うつ病対策、過労に対する企業の防止策など、それぞれの分野で「自殺防止」につながる対策が講じられているようだけど、どれも表面的に取り繕っているだけ。
もっと根本的な解決につながるようなことが本気で議論されるべきなんじゃなかろうか・・・
この本のタイトル「なぜ自殺は減らないのか」の結論はいったいどんなことだろうと読み進めていったけど、結局明確な答えがあるわけではなく、なんだか消化不良気味に本編終了。
しかし「あとがき」にピンとくることが書いてありました。
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本のあとがきに有名な方丈記の冒頭の一節が引用されてます。中学の時に古典で習いましたね。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
人生なんて流れに身を任せてどこまでも流れていくもの。時にはその流れの中に居場所を見つけて佇むのもいいけど、消えてなくなる泡の中にずーっと留まっていることなんてできないはず。
だけどその流れを無理に堰き止めてしまえば、それこそ「淀み」が生まれ、水も腐ってくる。
この本のタイトル「なぜ自殺は減らないのか」
その考え方の一つとして著者は
「すでに勢いよく流れ出しているにもかかわらず、それに逆らって堰きとめようとする力が過剰に加わるからであった。」
と述べています。うーん、抽象的。
つまり「自由に流れていきたい」「好きなことをやりたい」と人が本来持ってるプラスエネルギーを「これはダメ」「あれは無理」「それは危険」と既成概念で抑え込んで堰き止めようとする世の中になっている、って解釈でいいのかな。
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戦後復興、経済成長の時代はマニュアル化された横並び人間を多く輩出して、統率しやすい国民性を作り出し一丸となってがむしゃらに「敗者復活戦」を勝ち進んできた日本。
その結果、世界にも類を見ない経済大国にのしあがることができたのは本当に先人たちのおかげだと思う。だけど、昭和が終わって、バブルがはじけて、もうそんな時代は過去のことになっている。
インターネットが発達してボーダレスな世の中になり、もっと個人個人が自由に生きられるはずの今の時代。戦後からの同じシステムをずーっとなぞっているのは無理があるんじゃないか。
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著者は、いじめや虐待、自傷行為、そして自殺など(さらに付け加えるなら冒頭で示した殺人事件など)は「わからないこと」が増殖して謎の攻撃エネルギーが生まれてしまっている、と抽象的に記しています。
この「わからないこと」っていうのは、今の日本に漂う閉塞感だったり自粛行為だったり諦めだったり覇気の無さだったり、事なかれ主義だったり、固定概念だったりと、いろいろ表現できそうな気がします。
そんなものに抑え込まれて「泡」のなかから逃れることができず、「泡」の外には生きる場所がない、と信じ込んでしまっている人がいかに多いことか。
著者は自殺願望の考察としてさらにこんな風にまとめてます。
- 外部との交通が絶たれた堰(せき)のなかで、逃げ場をなくしてしまう
- どのような牢獄であれ、外へと通じる抜け穴さえ見つかれば誰も死など選びはしない
- 「わからないこと」を枠の中に封じ込めようとする管理傾向とは反対の道をたどるべき
- 「いじめはダメよ」と叫んで封じ込めようする前に、学校というソリッドなシステムが逃げられない堰になっていないかを考えなければいけない
- 教室が子供たちの未来に繋がる通路ではなく、息のつまる牢獄にみえていないかを検証しなければならない。
- いったい教育は誰のものか
- 学校は何のためのものであるか
- もしも学校に通ったために、子供たちの生きる意欲が萎えるのであれば、それはすでに学校以外の何かである。
- せめて彼らのために、とりあえず空洞化した枠組を壊してみるくらいの柔軟さはもってほしいのである。
この本の最後の数ページ、グッときた部分ですが、まさしく全日本人の人間形成の基礎となっている「学校教育」がちょっとおかしいことになってるんじゃないか、見直す時が来てるんじゃないか?っていうことですね。
戦後から続いてきた日本の学校教育。その中で育ってきた現代の子供たちが大人になって、会社に入って、そこでもいじめやパワハラ、謎の時間外労働、過労死、そんなのが絶えず引き起こされる世の中、なんかおかしいよ。
そういうことを指摘したいんじゃないかと。
その先の答えが知りたいなーと思いつつ本を閉じました。
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その後、たまたまAmazonで目に付いたホリエモンさんの著書「すべての教育は「洗脳」である~21世紀の脱・学校論~」が気になった。
堀江 貴文 光文社 2017-03-16
これはもしやと思い、ポチって読んでみた。
- 人が幸せにい生きるためには好きなことに没頭することが何より
- 没頭することを我慢して生きることを教えこむ「学校」「会社」の存在を否定
- インターネットで世界とつながる時代に国家とは虚構そのもの
- 学校とは国家に貢献するための人材を育成するための、いわば国策「洗脳機関」である
そんなことがズバズバ書いてあって、今の学校のシステムを見直すべき、という半端なことじゃなくて、もはや学校や会社なんて無くした方がいいとさえ言い切ってるところ、さすがだなぁと思った。
でも確かに現代の日本に漂う閉塞感の全ての元が学校や会社そのものだと考えたら、いっそのこと全部チャラにしちゃえば世の中ガラッと変わるだろうなーと思ってしまった。そんなことはすぐには無理とは思いつつも、いつかそんな世の中が訪れるんじゃないかとワクワクした期待感を抱いてしまいました。
何か人生に行き詰まりを感じてる人、毎日の生活に閉塞感を感じてる人、本当にやりたいことを我慢して生きている人。
いろんな人がいるかと思いますが、もしかしたらこの本を読むと胸のつかえが取れるかもしれません。
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今回はちょっと取り留めのない話になってしまいましたが、大磯のニュースが気になってちょっと書いてみました。
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