ベトナム旅行中のハプニングから日本と海外の死生観について考えを巡らせた
海外を旅してるとたまにびっくりするような出来事に遭遇します。
今回はケガ人に対するベトナム人の対応と、そこから海外の人の「死生観」について考えを巡らせたぞ!という内容です。
ちょっと閲覧注意な写真もありますのでご了承ください。
バスが救急車代わりに!
ベトナム北部のサパから麓のラオカイに向かうためバスに乗っていたときのこと。
山道の途中、バイクで事故った人を救助してバスで病院へ搬送するという、日本じゃちょっと考えられないようなハプニングを目の当たりにしました。
日本だったらそういう現場に遭遇したらまず救急車を呼びます。
しかし事故発生率がやたらと高いベトナムではいつ救急車が来るか分かったもんじゃありません。
参照
- 人口10万人あたりの交通事故死者数ランキング
日本が5.2人に対してベトナムは24.7人という統計。(2010年 世界保健機関)
不確実な救急車を待つくらいならバスでもなんでも運べる人が病院までケガ人を搬送するというのが理にかなった方法なんでしょう。
いや~しかしビビりますよ。
顔中血だらけの人がいきなり目の前に担ぎ込まれてくるわけですから。
▲ケガ人が担ぎ込まれてきた時の様子。
その時バスに乗っていた何人かの乗客と運転手の機転の利かせっぷりが、なんというか神対応でした。
すぐさま座席をベッド代わりにしてケガ人を横にさせ、ずれ落ちたりしないように二人の乗客がしっかり見守り、前に座ってた女性はどこかに急いで電話。たぶん病院じゃないですかね。
そして運転手は迷うことなく病院へ直行。
ベトナム語だったので実際どんな会話がされてたのか分かりませんが、誰一人動じず慌てる素振りも見せずに対応してたのが妙に感心しました。
▲乗ってたバスが病院に到着してケガ人を引き渡す時の様子。ケガした人の無事を祈ります・・・。
海外では死に対する捉え方が日本と違う
このハプニング中にとにかく印象的だったのは、血だらけで死にそうなケガ人を前に皆意外とアッケラカンとしてたこと。
時には会話の中で笑い声が起こったりして、これが日本だったら「不謹慎ですよ!」と注意されるような状況がずっと続いてました。
ここでふと思ったのが、海外では生死に対する考え方が日本と違うことが多いよなーということ。
日本人はなぜ死を恐れるのか
日本は死をタブー視あるいは特別視する傾向があります。
新聞、雑誌などで死体の写真を掲載するのはタブーたし、事件や事故で死者が出た場合も必ずブルーシートで覆って見えなくしてますよね。
ここからちょっとスピ寄りな話になりますが・・・
日本人は「世俗」「生きてること」を肯定的なものとしてポジティブに捉える一方、「あの世」つまり「死ぬこと」に対してはとてもネガティブなイメージを持っています。
日本古来の神道では人が死んだら「祖先」の一部となり子孫を見守っていくという意味合いが強い。
だから日本人は個人主義にならず祖先、家族を大事に思い、その延長で集団のつながりや「絆」なんていう言葉が重宝される。
だけど死んだら祖先の仲間入りだから安心!という神道的な心は生きてるうちはなかなか考えられない。仏教で言ったら極楽浄土ってやつですね。
みんな忙しいし生きてることで精一杯。とても祖先のことなどちょくちょく考えていられない。
だから「この世」への執着心が強く、反射的に死ぬということに異常なほどの恐怖心というか穢れたイメージを持っているんじゃなかろうか。
▲日常的にお参りをして先祖供養をする日本人はどれくらいいるだろうか。
それともう一つ。
日本人特有の同調主義が「死」を排除したがる感覚と関連性があるんじゃないかとも思えます。
みんな一緒がいい、他人から変に思われたくないなどの同調感覚が蔓延している日本人。「空気を読む」なんて言葉も日本ならではと思います。
つまりノーマルな状態ではなく異質な状態に嫌悪感を覚える、という感覚をみんな漠然と持っています。
ここで言うノーマルは一般的とか多数派とか均一とかいろいろと捉え方がある。
昔から続いていたことを「こうあるべきだ」と言って改良しようとしなかったり、「みんながやってるから」と同じような道を歩んだり、悪く思われたくないからと事なかれ主義に甘んじたり、いろんな場面で日本人の同調感覚がグルグルと尾を引いております。
また、若いことは良いこと、歳取ることは残念なことっていう空気も常に漂ってるような気がします。
「お若いのにまあ!」とか「その年齢ですごい!」とか何かとその人の年齢に照らし合わせて判断する場面が多いと思いませんか?
今の時代、年齢とか関係なく、その人の個性や能力が重視される世の中なのに、なぜか日本人は年齢を気にする。
歳は取りたくないから若作りしたりアンチエイジングなるものに大きな需要があったりするのもそのせいだと思います。
この流れで見ると、死ぬことは人生において最も異質なイベントとも捉えることができますよね。
必然的に、死ぬことが忌避されて、老衰死だけじゃなくてあらゆる「死の場面」から目を背けたがる傾向にあるのでは。
しかしなんというか。同調主義のせいで日本人は生きづらさを感じながらも日々ストレスに耐え、結果的に過労死とか高い自殺率とかにつながってくるのはなんとも皮肉を感じちゃいます。
目を背けがちな「死の問題」をわかりやすく解いたこの本はおもしろい。
「死体博物館」に見るタイ人の死生観
一方海外では、国や地域によっていろんな考え方や宗教観念があるけれど・・・
例えばタイでは仏教の観念が深く浸透しています。
端的にいうと、人間の体はあくまで借り物で中身の魂が重要ということ。
死んだら魂が別の体に宿り再生するので魂は永遠、つまり輪廻転生を信じる心が人々にしっかり根付いています。
大事な人が死んだら身近な人は悲しむだろうけど、死んだら死んだで仕方がない、亡骸はただの入れ物、魂は次のところに移っていったと割り切って考えることができます。
▲仏教の教えが深く根付いているタイ。
その昔、初めてバンコクの死体博物館に行った時、日本人の僕はものすごく衝撃を受けました。
死体博物館は法医学や解剖学の研究のため人間まるごとホルマリン漬けや犯罪者の全身ミイラ、事故や事件でグチャグチャになった人の写真などが雑然と展示されている場所です。(現在は整備されてもうちょっと見やすい雰囲気になっているが、やはりエゲツない部分もある)
誰でも入場料を払えば入場可能です。
そんな場所に小さな子どもを連れた家族が、まるで「水族館の魚でも見るような雰囲気」で見学してたのが衝撃だったのです。
日本だったら絶対こんな場所は子供に見せたくないよな~と思いつつ。
▲シャム双生児の標本なんかが見やすく展示されている。(source:Siriraj Medical Museum)
▲事件や事故で亡くなった人の写真とその人の骨が展示されている。(source:Siriraj Medical Museum)
タイでは新聞雑誌などに死体の写真がモザイクなしで掲載されることは当たり前。
テレビのニュースとかでも平気で惨たらしい死体の映像とか流しちゃいます。
もう死んでしまった人の体はただの物体。大事なのは魂。
その魂が喜ぶように、魂が次のステージで安心して過ごせるように現世で徳を積むことが重要だと考える人が多い。
だから死ぬことは怖くて陰湿な出来事というより、何か崇高で神秘的な出来事というポジティブな捉え方ができるんだと思います。
ベトナムのケガ人に対する反応も納得がいく
この考え方は同じ仏教を信仰するベトナム、ミャンマー、あるいは儒教が根付く中国でも同様な部分があると思います。
今回僕がバスの中で遭遇した出来事も
- 僕・・・事故でケガして下手したら死んでしまうかもしれない→恐怖・不安
- 他のベトナム人・・・事故ってしまったのは仕方がない、死んだらかわいそうだけどそれも仕方がない
という意識の違いがあってケガ人への接し方が違ったんじゃないかな。極端な話だけど。
ちなみにベトナム語で「生まれる」「亡くなる」という言葉はそれぞれ「世の中(人生)に挨拶する」「世の中(人生)を過ぎ去る」という意味があるのだそうな。
生まれることは魂が新たなところに入ってくること、死ぬことは魂がそこから去っていくということ。
この言葉の意味からしても輪廻転生が深く根付いてるんだなーと感じられますね。
インドはどうだろう?その他の宗教を信仰する国は?
ヒンドゥー教の信者が大多数を占めるインドは、聖なる川、ガンジス川が輪廻転生のシンボルとなっています。
人間の盛衰に関係なくただ雄大に流れるガンジス川、そして1年の中で乾季と雨季が繰り返されるインドの自然環境がそのまま宗教観を形成してインド人の心に根付いてるわけです。
死体を焼いてガンジス川に流すと輪廻転生の苦しみから解放されるという信念を持っているのも特徴的です。
インド人もやはり死に体して神秘的なイメージを持っており、日本とは全然違う死生観があるんだと思います。
▲雄大なガンジス川の流れ。インド人の心に流れる川。
イスラームやキリスト教、あるいはユダヤ教なども人体と魂は別物と捉える向きが強い。
これらのことをいちいち語ってるとキリがないのですっ飛ばしますが、宗教観がはっきりしてる国と宗教観があやふやな日本ではやっぱり死生観の違いが出て当然。
宗教観がはっきりとしていれば、人々の死への捉え方も全然違ったものになるのでしょう。
それがあやふやな日本では死生観も宗教的にならず世俗的になるのは無理ないかと。
▲宗教が異なる国では死生観も違ってくる。
死者の日を盛大に祝うメキシコ
日本に比べて自殺率が断然少ないメキシコに至っては、死に対してすごくポジティブなイメージがあります。
古代メキシコのアステカ文明では「死は新たな生への過程にすぎない」と捉えられ、現代のメキシコにもその観念が深く息づいてます。
その根拠となることの一つ、メキシコでは毎年祝日として「死者の日」が制定されており、盛大な祭りが行われるとのこと。
日本のお盆にあたるイベントで、
死者の日には家族や友人達が集い、故人への思いを馳せて語り合う。
のは同じだけど、日本と違うのは
あくまで楽しく明るく祝うのが特徴である。死を恐怖するのではなく、逆にあざ笑うというモチーフとなっている。
ってところですね。
▲底抜けに陽気な人々。ちなみにこれはメキシコ近隣のニカラグアで撮った写真。
死ぬことを恐れて不安になってても仕方がない。
今この瞬間をエネルギッシュに楽しく過ごせれば幸せ!
そういう楽観的な考え方がメキシコ人たちの心に染み込んでいます。
たとえ恵まれない環境にいようと、「家族」と「健康」があればそれで幸せ。人生の満足度は「いかに人生を謳歌できたか?」で決まる。
つまり、そういうことなんでしょうね。
今回のケセラセラ 人間は100%死ぬ
確かに日本は経済的には成功した国だけど、絶頂期を過ぎ、なんだかみんな疲れている時代。
今も変わらず経済重視路線でなんとか挽回を試みてるけど、その先にいったい何があるっていうんだろ。
もちろんお金は大事だし、幸せに生きるための一つの指標にもなる。経済が豊かになれば人も幸せになる。
資本主義の日本ではその考えは間違ってないけど、そこにばかり目を向けてると、ますます疲れる人が増えて、果たしてそれが幸せなのかどうか疑問に思う。
死ぬことは誰にでも起こること。いくらお金持ってても、いくらテクノロジーが進んでも、それは100%絶対逃れられない事実。
だから宗教や哲学に限らず、死ぬっていうことをもっと真正面から見据える風潮があってもいいんじゃないかなーと思うわけです。
どうせ死ぬんだから「自分の人生を生きる」ってことをもっと重要視してもいいじゃないか。
もっと生きやすい世の中になればいいなーと思いますよ、ほんと。
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