【インド北東部】マニプール州インパール町歩き。お母さん市場、日本人戦没者慰霊碑など訪問

インパールのイママーケット

バングラデシュからインド北東部に入り、マウリノンで「生きてる橋」チェラプンジで洞窟や滝を見た後にメガラヤ州の州都シロンへ。
シロンからさらに長距離バスでナガランド州のコヒーマ(Kohima)までバスで大移動。実に16時間のバス旅でした。その後、マニプール州のインパールまで乗合タクシーで移動しました。

今回はインパールの町を歩いた時のことについてまとめてみたいと思います。

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メガラヤ〜ナガランド〜マニプールの移動ルート

インド北東部の移動ルートはだいたいこんな感じ。

  1. (A)ダウキ→(B)マウリノン|車チャーター:1時間半ほど
  2. (B)マウリノン→(C)チェラプンジ→(D)シロン|車チャーター:観光しながら9時間
  3. (D)シロン→(E)コヒーマ|長距離バス:16時間
  4. (E)コヒーマ→(F)インパール|乗合タクシー:5時間

負の歴史。インパール作戦についておさらい

インパールという言葉を聞いてまず思い浮かべるのが第二次世界大戦中に日本軍が強行した「インパール作戦」。
せっかくインパールを訪れたのだから、歴史をおさらいしておこうと思いました。

インパール作戦(インパールさくせん、日本側作戦名:ウ号作戦(ウごうさくせん))とは、1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。
当初より軍内部でも慎重な意見があったものの、牟田口廉也中将の強硬な主張により作戦は決行された。補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。

Wkipediaより

イギリス軍・連合国軍の重要な補給地となっていたインパールを攻略するために、10万人とも言われる日本兵が現地へと向かい、インパールを目指します。
ビルマ(現ミャンマー)からインド北東部に入り、いよいよインパールへとたどり着く時に連合軍の激しい抵抗に遭遇。
その時日本軍はすでに武器も食料も枯渇した状態でとても戦いを挑む状況ではなかったと言います。

その距離感がどんなものだったのか、日本国内の地名を例に例えた記述があります。

この作戦の困難さを、吉川正治は次のように説明している。

「この作戦が如何に無謀なものか、場所を内地に置き換えて見ると良く理解できる。インパールを岐阜と仮定した場合、コヒマは金沢に該当する。第31師団は軽井沢付近から、浅間山(2542m)、長野、鹿島槍岳(長野の西40km、2890m)、高山を経て金沢へ、第15師団は甲府付近から日本アルプスの一番高いところ(槍ケ岳3180m・駒ヶ岳2966m)を通って岐阜へ向かうことになる。第33師団は小田原付近から前進する距離に相当する。兵は30kg – 60kgの重装備で日本アルプスを越え、途中山頂で戦闘を交えながら岐阜に向かうものと思えば凡その想像は付く。後方の兵站基地はインドウ(イラワジ河上流)、ウントウ、イェウ(ウントウの南130km)は宇都宮に、作戦を指導する軍司令部の所在地メイミョウは仙台に相当する」[33]。

このように移動手段がもっぱら徒歩だった日本軍にとって、戦場に赴くまでが既に苦闘そのものであり、牛馬がこの峻厳な山地を越えられないことは明白だった。まして雨季になれば、豪雨が泥水となって斜面を洗う山地は進む事も退く事もできなくなり、河は増水して通行を遮断することになる。

Wikipediaより引用

作戦は失敗に終わり、それどころか多くの餓死者、病死者を出す最悪の結果となりました。

当初からこの作戦は無茶で無謀で無理があると言われていました。
作戦が準備された1943年後半は敗色が濃くなり始めた時期。なんとかしてこの状況を打破したいという上層部の思惑があったのでしょう。
インパール作戦の危険性を唱え反対していた幹部が次々と更迭され、じきに誰も反対するものがなくなったばかりか、しまいには「大和魂」だの「日本人の誇り」だの精神論を掲げてついに作戦強行。そして上記の結果となったわけです。

精神論ではなく的確な作戦だったなら・・・。もっとまともな指揮官だったなら・・・。人の命を優先する考えを持っていれば・・・。
そもそも戦争なんか起こらなかったならば・・・。
こんなにも多くの人が遠く離れたインパールという場所で命を落とすこともなかったのになぁ。
戦争は人を狂わせるといいますが、インパール作戦はその最たる例だと思います。

話はそれますが、インパール作戦について調べてたら面白い記事がありました。

戦争とは社会全体がブラック企業みたいになることという極端な例え話ですが、まんざらでもない気がします。
精神論を唱えるおっさん、パワハラ、空気読め的な風潮、忖度する云々は旧日本軍の思想に確かに似てるところがありますね。

さて、旅の話に戻ろう。

コヒーマ(Kohima)からインパールまでの道がとんでもない悪路だった件 

朝7時にコヒーマを出発してインパールに着いたのがちょうど昼の12時。ざっと5時間もかかりました。
コヒーマから南下してインパールへと続く国道2号線はてっきりちゃんと整備された道なのかと思ってたらとんでもない。
整備されているのはインパール近郊だけであとはほとんどガタボコ道。山間の狭くて窪みだらけの道がずっと続き、かなりの悪路でした。

コヒーマの町からインパールへ抜ける道

▲コヒーマの町からインパールへ抜ける道。半舗装あるいは未舗装でかなりの悪路が続く。

そんな道をミニバス(乗合タクシー?)でグイグイ飛ばしていき、ちょっとした穴ぼこなどお構い無し。隙あらばどんどん車を追い抜いて行く運転手のドライビングテクニックは大したものですが、到着した時の疲労度はかなりのものでした。
途中で工事なのかなんなのか道が寸断されていたので脇道のものすごいダートロードに突っ込んで行ったのは正直ビビりました。

山中にあるパーキングで小休止

▲山中にあるパーキングで小休止。乗ってるだけでヘトヘトです。

インパールに到着した時は車の中は砂埃だらけ。カバンも真っ白でした!
マニュアル車を巧みに運転してきたドライバーはどこか誇らしげな顔をしてました^^

運転手

▲悪路を5時間ぶっ続け運転でもケロッとしてる運転手。

インパール町歩き。泊まった宿や見所のMAP

インパールに到着して、宿を探し、町歩きをしたり見所を巡ったりしました。
MAPにまとめてみましたのでご参考ください。

  1. Hotel Nirmala
  2. Hotel Bheigo
  3. Ima Market(お母さん市場)
  4. 戦没者勇士の碑
  5. インパール空港

インパールで泊まった宿

1泊目はHotel Nirmalaという老舗っぽいホテル。
Hotel Nirmala外観

▲ホテル外観。photo:tripadvisor

大きめのホテルで大小様々な部屋がありレストランや大広間などもあり団体客が多い。
WIFIが使えるとのことで喜んでチェックインしましたが、恐ろしいほどに低速でほとんど使い物になりませんでした(- -;)
人気の宿みたいで翌日は予約が入ってるとのことで、1泊しかできませんでした。

Hotel Nirmala
シングルルーム1泊 800ルピー
エアコンなし、シャワー・トイレ付き
窓はあるけど外は壁・・・。

hotel Nirmala部屋の値段表

▲部屋の値段表。

2泊目は通り沿いにあるHotel Bheigoというところ。
Hotel Bheigo外観

▲ホテル外観。photo:yatra

普通のビジネスホテルっていう感じです。でもやっぱりWIFIなし(T_T)。

Hotel Bheigo
ダブルルーム・シングル利用:990ルピー
シャワー・トイレ付き

世界最大の女性だけの市場「イマ・マーケット」

どの町に行っても必ず市場があるけど、女性だけの市場っていうのは珍しいです。
インパールの中心部に設営されたイマ・マーケット(Ima Keithel)は女性のみが出店を許され、4000人もの女性たちがここで商いをしています。

屋根付きの建物の中がメインの市場で、入ってみると確かに女性ばかり。
おばちゃんや年配の女性が多いように感じました。地元では別名「お母さん市場」と呼ばれているそうで、それも納得です。
野菜や果物、肉や魚、生活雑貨などありとあらゆる品々が並び、建物の外やその周辺にも敷物を広げて商いをする女性がずらり。

イマ・マーケットで魚を売る女性

▲インパールのイマ・マーケットで魚を売る女性。

イマ・マーケットで小魚を売る女性

▲インパールのイマ・マーケットで小魚を売る女性。

この市場は16世紀ごろから始まり、当時は男女で仕事が分けられており、女性は主に農業や商業を担うのが普通でした。そこでこの場所に女性だけの市場が作られ、今の時代になってもその名残が受け継がれているわけです。

イマ・マーケットを上から眺めた様子

▲インパールのイマ・マーケットを上から眺めた様子。

イマ・マーケットのバナナ売り場

▲インパールのイマ・マーケットのバナナ売り場を上から見た光景。

余談ですが、イスラムの国バングラデシュのダッカでは市場にいるのは男性ばかりだったので、ここは本当に対照的で面白かったです。

ダッカとインパールの市場

▲ダッカの市場は男だらけだったけどインパールの市場は女性が活躍してました!

インパール作戦 日本人戦没者慰霊碑

インパール作戦で亡くなった日本人を慰霊する場所が町の郊外にあります。
せっかくインパールまで来たのだから行ってみることにしました。
・・・ところがそこはかなり町から離れた場所でした。

旅行中はネット環境が乏しくて何も調べられなかったのですが、後日談として慰霊碑の成り立ち、慰霊碑への行き方などを以下、メモしておこうと思います。

通称「レッドヒル」の麓に建立された小さな碑

市内中心部から南西に16kmほど離れた道路沿いの小高い丘。そこは地元の人たちにレッドヒルと呼ばれています。
この丘はインパール作戦で激戦地となったところで、たくさんの日本兵が戦死し、丘が赤く染まるほどの血が流された場所ということでそう呼ばれているのだとか。
この丘の麓に「India Peace Memorial(インド平和記念碑)」というモニュメントがあり、その脇に小さな石碑が建てられています。

インド平和記念碑

▲レッドヒルの麓、インド平和記念碑の前で。白シャツの男性は碑を守る村人。

インパール戦没者慰霊碑

▲その近くにひっそりと佇む戦没者慰霊碑。

「ロトパチンの碑を守る会」「インパール作戦々没勇士之碑」と日本語で書かれた柵に囲まれ、石碑には「英霊よ この地で 安らかに お眠り下さい」と慰霊の言葉が添えられています。

インパール戦没者慰霊碑

▲慰霊碑の隣には当時実際に使われていた日本軍の砲台が。

日本語だから日本人によって建てられたのかと思ってました。
でもこれは現地の村人によって作られたと後で知って、なんとも言えない気持ちになりました。

日本軍がインドへ進軍したのは、後年インドがイギリスから独立するための足がかりともなった出来事。
そのために飢餓に苦しみながらも戦い、散って逝った日本人兵士たちの姿を地元の人たちは見ていました。

そして戦後にインド解放のために亡くなった日本人たちを慰霊し、この戦いのことを後世に伝えて行くことを目的として、レッドヒル周辺の地域(ロトパチン村)の村長さんと村人たちによってこの慰霊碑が建てられたのだそうです。

インパールでは数多くの日本人が亡くなったにも関わらず、この小さくて寂れた慰霊碑だけがインパールでほぼ唯一の追悼シンボルと言ってもいいかもしれません。
だから実際行ってみたら「えっ!?これだけ!!?」と少しガックリしちゃうかもしれません。
僕もそうでした。てっきり広大で立派な墓地があるのかと・・・。

慰霊碑の訪問者ノート

▲慰霊碑の訪問者ノート。見た感じ日本語が少ない印象でした。ここまで来る日本人はやっぱりまだまだ少ない。

地元の人たちが当時の村長さんの意志を継いで、大事にこの石碑を守ってくれています。
インド北東部、そしてインパールという行きづらさもあって日本人の訪問者は少ないのですが、旅行などで訪れた人は是非とも足を運んでもらえると良いかと思います。
地元の人たちにも喜んでもらえるし、何より亡くなった方々の供養にもなります。

レッドヒル(インパール戦没者慰霊碑)への行き方

タクシーやオートリキシャで「Japanese War Cemetery」と告げると連れて行ってくれます。実際はCemetery(墓地)じゃないんですが。
注意しないといけないのは、インパール中心部のやや北側に別のWar Cemeteryがあり、ちゃんと伝えないとそっちの方に連れて行かれそうになります。
そちらの墓地は主にイギリス軍の戦没者墓地で郊外のレッドヒルとは違う場所です。
最初そっちの方に連れて行かれそうになり、あわてて場所を再確認して郊外に向かわせました。

オートリキシャでレッドヒルへ向かう

▲オートリキシャでレッドヒルへ向かうところ。町を離れるとすぐに広々した荒野が広がる。

レッドヒルは郊外にあるためリキシャーのドライバーはあんまり気が向かないようです。
そして結構な高値を要求されます。

安く行きたい場合は「Nambol」と掲げられたオートリキシャーを探しましょう。
Nambolとはレッドヒルの手前2kmほどの場所にあるエリアの名称です。
インパールではバスの代わりに行き先を掲げたオートリキシャーが走っており、乗合タクシーのような役割を果たしています。

乗合リキシャ

▲「Nambol」と掲げられた乗合リキシャ。これに乗ればよかったのかも。

ちなみにインパールの空港に行く時も「Airport」と掲げられた乗合リキシャーを利用し、わずか10ルピーで行くことができました。

乗合リキシャ

▲空港行きの乗合リキシャ。たった10ルピーで行けるのがうれしい。

Nambolまではいくらか分からないのですが、フリーのリキシャーを拾うより大幅に安く行けるかと思います。
Nambolまで乗合リキシャで行き、そこからレッドヒルまで別のリキシャを拾ってもいいし、歩いてでも行ける距離だと思います。

ちなみに僕はフリーのリキシャで往復してしまい、結果的にかなりふっかけられて800ルピーも取られちゃいました。
もちろん最初に金額を確認したのですが、それはイギリス軍の戦没者墓地までの金額だったみたいで、しっかり再確認しなかったのがいけなかったのだと思います。

オートリキシャーぼったくり

▲料金をふっかけられているところ。窓に何も掲げられてない流しのオートリキシャーはぼったくりに注意。

Kangla Fort

インパールの中心部にある王宮跡地。
数世紀前にこの辺りに王国があって、このKangla(カングラ)という宮殿は当時の人々にとってとても神聖な場所だったようです。
中に入ってみると、外の喧騒が嘘みたいに静かで、緑豊かな光景に癒されます。
今も地元の人たちにとって憩いの場となってるみたいです。

Kangla Fort

▲夕暮れ時のKangla Fortをお散歩。

Kangla Fort

▲外の喧騒と違ってとても穏やかな空気が流れてます。町歩きに疲れたら寄ってみるのもいいかも。

Kangla Fort
外国人入場料:50ルピー

LUIS’s TRAVEL VLOG(旅の動画)

インド インパール街歩き 女性だけの市場や戦没者慰霊碑など